222日(悪口について考えていること)
おぎやはぎのインタビュー記事が出た。テーマは悪口について。媒体は新R25。
https://r25.jp/article/556389722790707537
ふたりはラジオやAbema TVの「ブステレビ」をはじめ、人の悪口をよく言っている印象があるのに、なぜ炎上しないのか。アルコ&ピースがラジオ企画で炎上したというタイムリーさもあってのタイミングなのか、このあたりを探るような内容。
極論を言えば、その理由とは、おぎやはぎという確立されたキャラクターということになるだろう。記事を読んでいておもしろかったのは、彼らにとって悪口とは正直に言ってあげることであって、そこに誠実であるということ。
誠実とはつまり「好かれようとするいっさい」を捨てているか。人によって態度を変えるなど、ここが中途半端だと、たぶん、うまくいかないのだろう。小木さんは本物の正直者で、むしろズバズバ言ってくれる「いい人」に見られることもあるという。
自分を振り返ってみる。先日の研修で同僚からコメントをいただく機会があった。まあ仕事におけるラブレターをもらうような企画。そこでひとりが「悪口、愚痴を言わないことが信用できる」とコメントをくれた。同期についても、似たようなことを言ってもらったことがある。少なくとも6年間、悪口や愚痴はほぼ言っていない。
でもそこには優しさなどは実はない。利他ではなく、徹底した利己なのである。他人の悪口や愚痴を言って、自分にマイナスな言動、感情を持つことを避けている。何度も記しているが、ぼくは紳助さんのタイガーウッズ理論を信じている。
その意味では、ぼくはこの利己を肯定しようと思う。悪口、愚痴を言わないことに対して、徹底すること。これがぼくにとっての誠実である。
悪口を言わないのと、たいこ持ちは異なる。相手を無理矢理ほめる必要はない。あくまで自分に負のエネルギーを溜めないようにコントロールするだけ。もちろんハンドルの遊びとして言葉の言い換えはギャグとして意識はしている。
たとえばチュートリアルの徳井さんが太ってる素人の写真を見て「フォルムがユニークな」なんてことを言ってたけど、相手がどう思うかという視点は常に持っておきたいとは思う。ただそこに拘泥すると八方美人でつまらない人間になってしまう。
小木さんとはちがうベクトルで、中途半端に人から好かれようにすることはしないようにする。要するに自分の言動に覚悟、責任を持つこと。
そんなわけで引き続き、悪口は言わないキャラを続けていく。
223日(手を挙げるキャラになること)
どちらの芸人が言っていたのか忘れてしまったけれど、鮮明に覚えている言葉がある。
「10年お笑いをひたむきにやっていれば、売れるチャンスは誰にでも必ず一度は巡ってくる」
ぼくの解釈としては、10年間、たんたんと、ただ活動していて成功することはまずない。皆無だ。
一度は巡ってくるチャンス。それはつまり、努力して手を挙げていれば「じゃあ君!」と、一度は打順が回ってくるということ。そこでホームランを打つのか空振りするのか、はたまた見逃すのか。
まず手を挙げることでそのチャンスに挑戦する権利を得ることができる。そこでものにできれば万々歳。もちろんうまくいかないときもある。誰だって毎回ヒットを打つことはできない。では空振りした後に、再び手を挙げているか。
いまの仕事においていえば、手を挙げ続けることで「こいつは手を挙げるキャラクターだ」と認識されるようになる。実は、ここが大きいなと感じている。もちろん、指名されたときに、最大限のパフォーマンスをしている前提ではあるが。
小学生の頃の意味もなく「はい!はい!先生!」と挙手するやつにはなってはなるまい。逆にいえば、周りはみんな場をわきまえているから、手を挙げる人も少なくなっている。若手と言われる時期にキャラが付くと楽だ。
「手を挙げるキャラ」になることで、別のところで指名がかかることがある。「あいつならこれも手を挙げるんじゃないか」って。そういった積み重ねが自分をつくる。これは仕事に限らない。
人間には自己保存の法則があって、現状を維持しようとするようだ。場合によっては、手を挙げるという行為は、極度の緊張を伴う。
場数をふめば、緊張しなくなる。それは、手を挙げたその先が経験によって想定できるようになり、自己保存を脅かさないようになるから。
要するに慣れだ。慣れはそれはそれでつまらない。だったら手を挙げていった方がおもしろい。緊張したらラッキー。自己保存なんてクソくらえだ!
224日(人から言われて気付く産物)
2日間の研修があった。
これまでの職業人生をふりかえり、今後を見つめましょう、というもの。いわゆるキャリア研修ってやつだ。
会社が費用を負担してくれる。そこにまず感謝したい。事前課題であるこれまでのふり返りは、ていねいに時間をかけた。ただ正直、当日の内容にはそこまで期待をしていなかった。こういう研修は当たりハズレがどうしても、ある。
いい意味で裏切られたのは、研修の内容は、1対Nの講義式ではなく、徹底した参加型。いわゆるアクティブラーニングということかな。そしてもう一つ、自分自身とグループそれぞれのポテンシャルと向き合う姿勢にかかっていた。
極端な話、周りのメンバーに恵まれていないと、どれだけ自分が本気で向き合っても、得られるものは少なくなる。
で、おかげさまということもあって、思わず「ハッ」とさせられる場面があった。本気で伝えて、本気で返してくれた産物だと思う。で、それは自分と所属する組織との関係性のこと。
まずは自分の価値観について。これまでぼくは、極めて自分本意で所属する組織への想いは薄く、ドライなものだと思い込んでいた。少なくとも会社に依存しておらず、そのため愚痴を言うこともなく、あくまで自分と対等な関係だととらえてきた。
そして自分がやりたいこと(企画)を実現するために会社を利用してきたという認識だ。たとえば実現可能性を高めるためには、組織にとってどういうメリットをつくれるか。ここをいやでも考える。そうした組織起点の思考は、「自分の成長のため」と思って行動してきた。
しかしながら、研修中にこれまで自分が手がけてきた仕事についてインタビューで答えると「会社愛」というキーワードが挙がった。フィードバックをもらって、これには驚いた。依存と愛は別モノなのだ!
話ぶりから「会社愛があって、何とかしたい」という想いが滲んでいるように聞こえたという。こういうのは、聞き手がどう思うかなので、一つの見方として確実に正しい。
指摘がなければ、おそらく自分のなかの会社愛など気付かずに一生過ごしていただろう。恋愛において、人から言われてちょっと意識してしまうあの感覚。それに近いものを感じたのは事実だ。笑ってしまうけれど。
昔の関西の商人のように「三方よし」を考えてきた。相手とその先を考えたうえで、自分のしたいことを重ねていくのは、社内マーケティングとして森岡毅さんの著書でもまさにいま勉強しているところだ。
まるで他人事だけれど、どうやら異動があって、ぼくはマーケティングに携わるようになるらしい。なおさらだ。がんばらねば。
225日(面白法人カヤックの組織づくり)
人口からこれから急激に減る。
しかしながら株式会社的な企業は対株主の手前、右肩上がりの成長前提の戦略となっていることが多い。場合によっては、売上第一主義で「それは戦略と呼べるのか」なんてこともあり得る。
では代替案があるのかという問いを自分のなかで持っていた。ほぼ日(上場はしているが)のような有機的な組織に、旧体質の企業を変えることができるかというとむずかしい気もしている。
こういったことを考えるにあたって、ぶつかる問題は、ではそもそも何のためにその組織を存在し続けさせる意義があるか、ということ。ここの大前提を変えないといけないとなると、まさにスクラップアンドビルドでドラスティックに既存の方法をぶち壊す必要がある。
たとえば面白法人カヤックは、創業者が「おもしろい組織をつくる」という目的のもと、会社組織を新たに生んだ。当初の理念は守られ、おもしろい組織であり続けることが組織の意味として、社員全員が意識する仕組みを敷いている。まさに持続可能=サステイナブルな組織といえるのではないか。
光がよく当たるのは、サイコロで給与が決まるというワード。もちろんここで言う給与とはボーナスであり、基本給は別である。で、その基本給はというと、360度評価制度で同僚がランク付けをそれぞれするという極めて透明性のある仕組み。森岡毅さんがオススメする相対評価と一致する。
採用、給与の人事まわりに透明性があり、また全員がおもしろい組織をつくる担い手としての自覚を促すために全員人事部というような試みもしている。上下関係の肩書きも最低限に抑えている。
そんなカヤックもじつは上場していて、「株主とブレスト」なんてこともしているようだ。上場するときに、面白法人カヤックはこういう組織です、という前提が浸透していることで、投資家は「わかったうえで」株主になる。
前述したほぼ日もそうだ。糸井さんは売上第一主義のような質問を受けたときに「ああ、うちはそういうことはしませんから」と答えていた。組織のあり方が変われば、従来の株主(とくに個人株主)のあり方もシフトしていくかもしれない。
組織のあり方についてふれている「ティール組織」という本に関心がある。まだ読んでいないけれど、解釈としては「組織の存在意義と目的が浸透していて、ボトムアップ型で意思反映がされる持続可能性の高い組織」である。
これからの組織づくり、また既存を改善するためのエッセンスになり得るのか。実務におとしこむ意志をもって、一読してみたい。
226日(テレビ好きと相対化世代について)
いきなりだけどぼくは、テレビが好きだ。
堂々と言える自信がある。だが正直なお話、そこまで観てはいない。好き=量と考える方に対しては「文化としてのテレビ好きです」と伝えるようにしている。
たしかにテレビ創世記の話には興味もあるし、小林信彦のテレビまわりの著書はよく読んでいた。昭和への憧れがある、ただのカルチャー好きなのだと思う。
だけれども、まだ言語化できていないテレビと自分の関係性があるはず。こうも思ってきた。ではそれはなんなのか。これまでのテレビ体験が、自分を形成するアイデンティティの一つのピースでさえあるのではないか。そのことを考える日々。
最近なんとなく答えが見つかりつつある。先に記すとそれは「相対化」だ。自分なりに相対化を一言で表すと、「当事者の関係から視点をずらして第三者としてとらえること」。
まず相対化って何だよという話。ほんとに雑でカンタンな例だと、結婚式で同席した知り合いに対して「あれ?なんでよそ行きみたいな格好してるの?」というような冗談。「お前もよそ行きだろ」ってツッコミをいただくパターン。
結婚式で当たり前となっているドレスコードを相対化して第三者のツッコミを入れるかんじ。メタにも通ずると思うけれど、ここでは相対化と表現したい。
で、まずはこの相対化に関するテレビのキーワードを思いつくままに、ザザッと挙げてみたい。
反権威、ツッコミ、パロディ、っぽさ、スタッフ笑い、演技、照れ、予定調和の破壊、ちゃかし、モノマネ、形態模写、ドッキリ、バラし、露悪的
これらキーワードでパッと思い当たるタレントは、ビートたけし、タモリ、とんねるず、爆笑問題、ナインティナイン。
これまで観てきたバラエティ番組にひもづく前提だけど、やっぱりこういったテレビスターが自分のなかの存在として大きいことが見えてくる。
自分のなかの相対化として、日常に落とし込みはじめたのは中学校の高学年からだろうか。キーワードを盛り込んで無理やり表現するならば、
「反権威」の自分が納得して教師と自分、つまり双方の関係性を良好に収めるために、「照れ」を隠して優等生「っぽい」存在を、「演じて」笑いにさえ昇華して楽しもうとする行為。
こんなことをしていた記憶がある。ひねくれた平和主義というか何なのか。
余談だが、みうらじゅんさんがかつてこんなことを言っていた。「恥ずかしいことをしないといけないならば、その行為の前に"ショートコント"を付けてから行動してみよう」と提案していた。まさに相対化だと思う。
ぼくはおそらく中学以降もずっと相対化マインドを持ち続けていて、社会人となったいまでもコミュニケーションの手法として、無意識のうちに相対化したふるまいをとっている。とくに最近、自覚することが増えてきた。
気をつけないとならないこと。それは現代という時代は、マキタスポーツさんのいうところの「一億総ツッコミ社会」であるということ。ツッコミ過多の時代なのだ。
相対化してメタ視点で、ただちゃかすだけでは、表面的なツッコミでしかない。何のための相対化であって、笑いなのか。ベタの揚げ足をとるだけではそこに意義がない。それでは形骸化してしまう。
しっかりした形式的なものを嫌うのはたとえばタモリさん。先日の記事でもご紹介した通り、徹底した思想をお持ちだ。
ただそこにあえて乗ることによる相対化もいまはある。たとえば一周まわって「ベタ」を楽しむという、プチ鹿島さんなど提唱する方法だ。
良くも悪くも、こういったクセはなかなか取れないのだろうと考えている。むしろどう付き合っていくかを考えていく。クリティカルシンキングなどの目線を持つこととは、またちょっとちがうベクトルだと認識をしている。
だいたひかるさんでいうところの「私だけでしょうか」という心の声がこだましてくる。ひょっとしてぼくらはサンプリング世代ならぬ「相対化世代」なのではないか。こういうふうに大きくでてもいいのかな。
まだまだ説明が足りない気がしているのだけど、今日はここまで。
227日(個人のブランド化について)
無敵のサラリーマンでおなじみ、LINEからZOZOに移った田端さんが来月頃に「ブランド人になれ」という本を出すらしい。同タイトルの本がわりと前から出ていて、いまにも通ずるよって知人から聞いたばかり。個の時代の波がたしかに、徐々に、押し寄せている気はしている。
いまもやっているかはわからない&そのときのパフォーマンスかもしれないけれど、出版エージェンシーのコルクは社員のKPIをTwitterのフォロワー数としているらしい。
このことを記事で知って、担当作家のフォロワー数ではなく、社員個人のフォロワー数をKPIとしていることにおもしろさを感じた。
ぼくの会社同期の社員が実名でTwitterをはじめた。本人から1万フォロワーいくのでよろしくと連絡があった。半分は冗談かもしれないけれど、ぼくはこういう試みをする社員のことを本気で応援したいと考えている。
そういうスタンスでいることの要因はいくつかあるのだけど、年々、社員が自ら前に出ていくことについて温度感が増してきている。
たとえば最近ではロイヤルカスタマー施策として、顧客とどういった関係性を築いていくべきかを考えている。そこをつきつめると、社員が前に出たファンミーティングをしている、ビール会社のヤッホーブルーイングのような企業が出てくるわけで。アウトドアのスノーピークもそうだろう。
考えの原点はやはりテレビで、忘れられないのは、いつかの「テレビ放談」という番組。そこで鈴木おさむさんが語ったこと。これからのテレビに期待することは?という問いに対して「スターの素」と回答された。このスターとは、局のディレクターを指している。つまり社員である。
売れっ子作家というのは、各局で番組を担当する。実は、バラエティ番組が画一的なつくりになったことに対して、放送作家主導の番組づくりになったからという指摘をする方もいる。
ぼくはそこはどうでもよいと考えていて、これから何をしていくか。鈴木おさむさんは、局員に期待した。社員が前に出ることで局の色がそこに出るといい。パッとテレビを付けたときに、「これってテレ東っぽいな」と思わせたら勝ちだと思う。
そういう意味でテレ東は着実にオリジナリティを育んでいるように見受けられる。たしかにテレ東の社員の方々は、Twitterの使い方がうまい。露悪的というか自虐を意図的に使うのだけど、その塩梅が皆さん見事。このあたりは社風が垣間見えて、テレ東ならではと感じる。
社員が前に出て自分の意見を発信していくことは、これからも肯定したい。自分もある程度はそうでありたい。個人として際立つことは、本人にとってまずプラスとなるし、そういう社員がいる会社ということでブランド化できることが理想だ。
もちろん、そこでブランドを毀損するそとになったら元も子もない。これは組織と社員の信頼関係に関わること。このあたり、今後もテーマになる気がしているので、引き続き注目していきたい。
228日(組織のあり方がどう変わるか)
組織は固定から流動化へ。
家入一真さんなどが提唱しているように、組織における仕事はプロジェクト化していくと考えている。分散する。
たとえば会社に属するサラリーマンは、一つの会社に留まるのではなく、プロジェクトをいくつか抱えてパラレルに進めていくようになる。フリーランス化といったた方がわかりやすいかもしれない。会社と個人の関係が徐々に変化していく。
そういった時流を考えれば、コワーキングスペースのWeWorkが伸びていくのは必然だし、Slackのようなコミュニケーションツールの利用が増えるのもうなづける。
逆にいえば固定オフィスに紐付くようなto Bのビジネスモデルのサービスは転換を求められるかもしれない。たとえばグリコのto Bのサービスであるオフィスグリコが、このまま伸び続けるかと言われれば、皆が肯定するとは思えない。
で、じゃあ固定の組織が旧態依然の仕組みですべてがよくないのかといったら、そんなことはない。組織としてヒトをしっかり囲うことで育てられるカルチャーは確実に存在する。
たとえばジブリはこれまで関連の美術館のカフェスタッフまで正社員として雇ってきた。もともと東映系のアニメ事業からやがてジブリになるのだけど、そこにはヒトを囲うという思想が宮崎監督にはあった。アニメーションはとくに技術が属人化している意味で、実写映画よりも顕著なのだろう。
たしかに組織として腰を据えてじっくりやっていくのは非効率だ。だけど時間はかかるけれども、そこで育ったヒトや生まれる作品には「らしさ」文化が芽生える。全員がフリーでその場かぎりの現場でやっていってはノウハウが得られず、成長しずらい環境になるのはなんとなく想像できる。
形骸化した固定の組織がだんだん解体されていき、即席のプロジェクト型にシフトしていく。そしてやがて組織としては脆さを含むプロジェクト型の弱点が見えてきて、たとえば少数精鋭のアニメスタジオをつくろう!みたいな動きが起きてくる。
いまは転換期なのだろう。懐古主義で単に昔がよかったといって真似していては、きっと上手くいかない。だけど、参考にする部分はある。いまに合わせたアップデートによって、業界それぞれで新しい組織のあり方が見えてくるはず。