226日(テレビ好きと相対化世代について)
いきなりだけどぼくは、テレビが好きだ。
堂々と言える自信がある。だが正直なお話、そこまで観てはいない。好き=量と考える方に対しては「文化としてのテレビ好きです」と伝えるようにしている。
たしかにテレビ創世記の話には興味もあるし、小林信彦のテレビまわりの著書はよく読んでいた。昭和への憧れがある、ただのカルチャー好きなのだと思う。
だけれども、まだ言語化できていないテレビと自分の関係性があるはず。こうも思ってきた。ではそれはなんなのか。これまでのテレビ体験が、自分を形成するアイデンティティの一つのピースでさえあるのではないか。そのことを考える日々。
最近なんとなく答えが見つかりつつある。先に記すとそれは「相対化」だ。自分なりに相対化を一言で表すと、「当事者の関係から視点をずらして第三者としてとらえること」。
まず相対化って何だよという話。ほんとに雑でカンタンな例だと、結婚式で同席した知り合いに対して「あれ?なんでよそ行きみたいな格好してるの?」というような冗談。「お前もよそ行きだろ」ってツッコミをいただくパターン。
結婚式で当たり前となっているドレスコードを相対化して第三者のツッコミを入れるかんじ。メタにも通ずると思うけれど、ここでは相対化と表現したい。
で、まずはこの相対化に関するテレビのキーワードを思いつくままに、ザザッと挙げてみたい。
反権威、ツッコミ、パロディ、っぽさ、スタッフ笑い、演技、照れ、予定調和の破壊、ちゃかし、モノマネ、形態模写、ドッキリ、バラし、露悪的
これらキーワードでパッと思い当たるタレントは、ビートたけし、タモリ、とんねるず、爆笑問題、ナインティナイン。
これまで観てきたバラエティ番組にひもづく前提だけど、やっぱりこういったテレビスターが自分のなかの存在として大きいことが見えてくる。
自分のなかの相対化として、日常に落とし込みはじめたのは中学校の高学年からだろうか。キーワードを盛り込んで無理やり表現するならば、
「反権威」の自分が納得して教師と自分、つまり双方の関係性を良好に収めるために、「照れ」を隠して優等生「っぽい」存在を、「演じて」笑いにさえ昇華して楽しもうとする行為。
こんなことをしていた記憶がある。ひねくれた平和主義というか何なのか。
余談だが、みうらじゅんさんがかつてこんなことを言っていた。「恥ずかしいことをしないといけないならば、その行為の前に"ショートコント"を付けてから行動してみよう」と提案していた。まさに相対化だと思う。
ぼくはおそらく中学以降もずっと相対化マインドを持ち続けていて、社会人となったいまでもコミュニケーションの手法として、無意識のうちに相対化したふるまいをとっている。とくに最近、自覚することが増えてきた。
気をつけないとならないこと。それは現代という時代は、マキタスポーツさんのいうところの「一億総ツッコミ社会」であるということ。ツッコミ過多の時代なのだ。
相対化してメタ視点で、ただちゃかすだけでは、表面的なツッコミでしかない。何のための相対化であって、笑いなのか。ベタの揚げ足をとるだけではそこに意義がない。それでは形骸化してしまう。
しっかりした形式的なものを嫌うのはたとえばタモリさん。先日の記事でもご紹介した通り、徹底した思想をお持ちだ。
ただそこにあえて乗ることによる相対化もいまはある。たとえば一周まわって「ベタ」を楽しむという、プチ鹿島さんなど提唱する方法だ。
良くも悪くも、こういったクセはなかなか取れないのだろうと考えている。むしろどう付き合っていくかを考えていく。クリティカルシンキングなどの目線を持つこととは、またちょっとちがうベクトルだと認識をしている。
だいたひかるさんでいうところの「私だけでしょうか」という心の声がこだましてくる。ひょっとしてぼくらはサンプリング世代ならぬ「相対化世代」なのではないか。こういうふうに大きくでてもいいのかな。
まだまだ説明が足りない気がしているのだけど、今日はここまで。