DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

268日(中心と周辺を考える)

グローバリズムを語るとき、中心と周辺というワードが出ることがある。

たとえば先進国と後進国との経済格差。つまり先進国を先進国たらしめている利潤の源泉は、その周辺の後進国の存在ありきだという考え方である。中心が栄えれば、周辺もその余沢によって栄えるという発想があったが、どうやらそうではないらしい。という主張が、「21世紀の楕円幻想論」の内容。それにしてもタイトル付けがうまい。

ぼくはこの中心と周辺の話を考えたのは、元フジテレビの吉田正樹さんの著書に書いてあったこと。センター・ペリフェリー理論。センター(中心)とペリフェリー(中心)。文化人類学の用語としてあるらしい。

何かというと革新的な何かを起こすのはいつも周辺の勢力であるという。80年代、サブカルチャーを飲み込み、深夜をきっかけとして、中心的な存在となったフジテレビには、まさにセンター・ペリフェリーの発想があった。

では中心となる存在になったとして、どうするか。中心に安住せず、周辺に身を置くことが大事である。ぼくはこの言葉を知って、いつも周辺の気持ちを持っていこうと決めた。もし中心にいてしまったとしても、ひとり外側を向いて、客観性を持とうとする。

中心にいると、周りが見えなくなる。だったら、外を見て隣の芝生を見ていた方が効果的だ。青く見えるのか、何色に感じるのか。その感覚はバロメータであり、外の風にさらすことで、自分自身をよく知れることもある。

話を戻して経済的な観点でいえば、周辺による勢力が、先進国側のシステムによってがんじがらめとなり、中心の余沢がまわってこない事情がある。一方、カルチャーでいえば、少なくとももっとフラットである。

たしかにフジテレビもそうだし、アイドルの素人文化たとえばAKB48だって、周辺勢力からの始動だ。そちらの方が物語性もあるわけで。

中心にいるかどうかの客観性は持った方がいい。そこを仕組みにするな。安住したら終わり。そこからリブートさせることはまずむずかしい。であれば、自分自身をもう一度、周辺にさらしたいものだ。そもそもいま、自分は周辺のどこにいるのか。どうやって勢力をつけていくか。ものの見方で立ち位置は変わる。いくつかの視点で中心と周辺を考えるのも、おもしろい。