350日(「アクティブな隠居」を深堀する)
「アクティブな隠居」をもうすこし深堀してみたい。
以前、人生をかけてやりたいことを考えていた。そのとき出てきたキーワード。隠居とは、もともと江戸時代に生まれた言葉で、家督を他者に譲ること。民法上の制度としては廃止されたが、意味が転じて、一線から退いて悠々自適に暮らすことを指すようになった。ただし言葉に含まれるニュアンスとして「隠れて住まう」感は拭えない。
ぼくはそこに「アクティブ」という要素を加えたい。わかりやすく説明するために、まず具体の人物を挙げる。あくまで自分の中のイメージ。敬称略。
木村蒹葭堂、白州次郎、細川護煕、福森雅武、所ジョージ、シェップ・ゴードン、大橋巨泉。
いまパッと出てこない方も含め、まだまだたくさんいる。そういった生き方を学ぼうと思い、たとえば大橋巨泉なら彼の著書を読めばいい。しかし、「隠居」というキーワードでは、なかなか自分に合う本が見つからないのが現状だ。
たとえば「 20代で隠居 」という本や、最近のウェブ記事「極力働きたくない」などを読んでいると「脱」という共通点が見えてくる。
つまり、「脱」働く/企業/都会/競争/コスト/負荷/資本主義経済/ストレス
生き方として、素敵だとと思うし、尊敬する。
ぼくはどちらかというと、「遊」「忘我」「夢中」「数寄」「好き」「道」「極」このあたりのワードのイメージから隠居という意味の輪郭をつくっていきたくて、また実践したいと考えている。
上記の記事にあることとして、ご夫婦以外での友人関係をつくることは積極的にはしていないようだ。生き方のスタンスがあるにせよ、働かないライフスタイルを30代でとったとして、移住先になかなか同じ生活レベルの方がいないという現実はあると思う。時代の流れでもっとスタンダードに近づいていくだろうけれど。
その意味で、アクティブな隠居というライフスタイルを選択したとして、周りの環境をどのように醸成させていくかは考えなければならない。灯台もと暮らしの鳥井さんが、コミュニティへの関心を持たれているように、暮らしとコミュニティの関係性は重要で。
ぼくはコミュニティについて、茶の湯やサロン、コーヒーハウスといった歴史の文脈から学びたいと考えている。引き続き、この領域を深堀りしていきたい。