DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

382日

ジャン・コクトーは「オリジナリティ」という言葉をキラった。黒澤明は「創作とは、記憶である」という言葉を残した。三島由紀夫は「創造とは模倣の頂点」とまで言い切った。

いったい創作とは何なのか。ゼロからイチをつくりあげる活動ではないのか。ぼくの実体験をもとに、今日は創作について考えてみたい。必要条件はたくさんあるだろうから、「ここ大切だな」って思うところを出したい。2つあった。

一つは偶然性である。「いきなり偶然かよ」というところなのだけど。まずは言葉の例を一つ。沢木耕太郎は著書でこんな言葉を残している。「あらゆる創作物は偶然によってドライブがかからないと、よりよいものにならないことがある」。偶然のドライブはなくても成立するけれど、あった方がいいよ、そういう意味だ。

ぼくの実体験。あれは小学1〜2年生のいずれかのとき。紙で版画をつくる活動があった。図工という授業なのかな。で、ぼくは、動物のサイを版画でつくった。作品として表現した。たまたまよくできたということで選ばれた。学年のなかでの入選というレベルだったけれど、うれしかったのを覚えている。

うれしいと同時に子供ながら感じていたこと。それは、サイをつくろうと思ってつくった作品では、まったくなかったということ。周りを見渡せば、「ワニが好きだからつくる!」みんなそんなかんじだった。ぼくは、好きに自由に紙をさわっていて、たまたまあるときその形がサイっぽかったので、目などを付けて「サイ」とした。ラッキーの賜物だった。同じ要領で「ウマをつくってみて」と言われても絶対にできないな。そこは、なんとなく感じていた。

実はこの感覚は、水墨画の体験を二年前にしたときに肯定的に味わった。水墨画の一つの方法として、何を描くか決める前に、液をぼたぼたと紙に落とすことがある。そのしみ具合などからイメージし、たとえば谷を見出して、そこから風景画をつくっていく。そんなことがある。おもしろい。まさに偶然性そのもので、そのにじみを二度やってみろと言われても出せない。つまり、再現ができない。

その偶然性による再現不可能な表現を、肯定的にとらえるところが水墨画のおもしろさと感じた。一回一回が勝負であり、それぞれに個性があって、そこにはかさながある。たまたま見えた谷から描く風景画、「谷」を見るという見立てとともに、偶然のドライブをそこにぼくは感じた。これは日本流の一つの創作方法として大切なファクターであると。


話を戻す。もう一つは、構造の模倣。やはり模倣は創作において、密接な関係があると考えている。でもぼくはそこに構造を付ける。フレーム、型、そんなようなニュアンスだ。

中学生の頃、あるテーマの作文で、市のレベルで表彰されることがあった。普段そんなことはまったくない。では今までと何が異なるかというと、過去の優れた作文を読んだということ。そして、一言でいえばそれらを参考にした。踏み込んで言えば、構造を模倣した。当時はグレーゾーンだと勝手に思っていた。つまり人の真似に当たるのではないか。怯えていたからこそ、「構造」という部分を引き出すことにより注力して作文したことを思い出した。

構造を抜くとは、優れたある作文の主題と話の展開の方法を、自分の語りたいことに当てはめたということ。型を見出して、そこにはめこむ。すると、ちょっとはみ出したり、構造を再構成したりする必要が出てくるのだけど、その工夫によって、新しい発見が生まれることもある。かなり抽象的にいま述べているが、実感として確かにある。ここにも偶然の要素があるわけで、この偶然と構造の模倣 。2つが創作の大切な要素。こう考えている。

ポール・ヴァレリーは「とても偉大な芸術とは、模倣されることが公認され、それに値し、それに耐えられる芸術だ。」と言葉を残している。

いわゆるコピペ、剽窃はあってはならない。論文を書いていた大学時代に学んだつもりである。模倣には十分な注意をはらう必要がある。あとは最大限のリスペクトだ。最後に松岡正剛のこんな言葉を記しておく。


「どうしてフランス語を自分がつくったといえますか。どうして映画を自分がつくったといえますか。われわれは、何をするにしても、すでに多くのことを踏襲しているのです。」