DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

383日

「意見のある人は挙手して!」「はーい!反対ー!」
勢いにまかせ、興奮気味しながら手を挙げる。意気揚々と発言し、「言ってやったぜ」と顔に書いてあるような、生意気な表情をして、すっと席につく。ぼくはそうして道徳の教科書を閉じた—。

そう、小学生の頃、道徳の授業でそんな回があった。今日考えてみたいのは、人はいつから反対をしなくなるのだろうか、ということ。

思い返せば子どもの頃っていまと比べればよく反対していた。精一杯の自己主張をしていた。授業がないとき、休み時間の遊び一つとってもそうだ。ルールやチーム決め、子ども自身でつくっているわけだから、そりゃ完全なものはない。だから等身大として、反対意見も言えていたのだろう。もちろん子どものときも場合によっては「ここは(あるいはこの人の前では)言えないぞ」っていうこともあったのだけど。

大学から、いや社会に出てからか、基本として反対する機会がない。自分の主義として「否定」はしない。すべてを肯定した上で、自分がどう思うかを大切にしている。だけど、否定と反対は異なるもので、反対を言うべき機会は世の中たくさんあるわけで。むしろ言うことで社会やその場をよりよくすることもある。

「あなたの意見はこういうこととして理解しました。その上でぼくはこう思う。」議論の場が機会としては多いのだろうか。仕事では打ち合わせはしょっちゅうある。ただ考えてみるとぼくは「〜した方がいいと思う」という助言レベルがほとんどだ。それは、大枠が決まった案件において、どう進めるべきかのレイヤーなのだ。かんたんにいえば重大な決定事項は、トップダウンという言葉があるように、トップが決めているということ。

これがだんだん、重要な決定事項においても、案件によっては「決められる前」「決める」これらのタイミングで意見を求められる機会が増えてくる。そもそも企業のトップとは、決めることが仕事である。「決めるだけ」かもしれないが、その決定は、企業としての大きな選択である、一つの判断が未来を左右する。だからからこそ、常に自分ゴトして考えておくのが重要なのだな。よくありますな。「君が社長だったらどうする?」って。

反対をするにあたって、ここはぜったいに、はきちがえないようにしたいこと。それは「NO」を突きつけることを仕事だと思うこと。とくに自分が承認する側として判断を求められる場合だ。ただ突っぱねるのは、誰でもできる。

もし反対の流儀があるのなら、ぼくは2つ考える。まず一つは、反対までの考えのプロセスをわかりやすく可視化させて伝えること。点ではなく線で、その判断にいたった話を手短に伝える。要するに理由だ。人によっては、理由が理屈になっていて、わかり合えないときがある。思考のプロセスを見せて、どこに判断のちがいがあるのかをお互い見せ合うことが大切だと考えている。

もう一つは、代替案を持つこと。立場が上の方が、容易にそれを見せてしまうと、代替案があたかも「正解」のように相手にとらえられてしまう。それはよくない。ただし思うのは、反対をしてそれで終わると、議論も思考も止まってしまう。「では、どうするか?」ここをしっかり考えたうえで反対をするようにしたい。

代替案にもいろんな角度がある。ぼくならこうする。たとえばこんな切り口もある。だったらこうするのはどうか。そうやって、反対が新しい視点を見出す、ときもある。表現が難しいけれど、否定はせず、いい反対意見を言えるように。