DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

407日

ワタリウム美術館へいった。
現代美術を扱っていてテーマが毎回おもしろい。知り合いから、そう教えてもらった。4階建てのビル、外苑前の一等地。鑑賞にはエレベーターを使いながら移動する。地下にはカフェ&ギャラリー。本も販売していて置いてある本のセンスがこれまたいい。山田寅次郎の名はここで知ったというのは余談。

あとそうそう、ワタリウム美術館がどういう経緯でつくられたかを追った本もあった。すべてを把握していないが、どうやらワタリさんという方が建てた念願の美術館らしい。個人を起点とした私立美術館というところだろうか。

今日は名について考えてみる。
個人の名前が付く美術館。品川の原美術館。原宿の太田美術館。青山の根津美術館。まだまだあると思う。こういった美術館の多くは、個人の私財であるコレクションを一般公開しようという名目でつくられているはずだ。

場合によっては本人の意思に反して、周囲の方が「もったいない」と開放してしまったかもしれない。ただここでいえるのは、個人の美術館には、その個人のセンスが凝縮されているということ。「これ、いいでしょ」の集大成というわけだ。

ふと平田オリザさんの言葉を思い出した。「演劇のおもしろさは自分の世界観を具体化するところ」だと。著書の「演劇入門」にそんなことが書いてあった。個人の美術館にも、そのおもしろさがある気がする。「これがいい」という価値観がコレクションという形で現実に残り続ける。はたから見ると、美術館に自分の名前が付くというのは、とっても名誉あることだ。

自分の名前が世に残ること。たとえば辞書に載ること、教科書で教えられること。美術館として名前が残ること。たしか永六輔はこんなような言葉を残している。「人は二度死ぬ。一度目は肉体が死ぬとき。二度目は世界から自分のことを覚えている人が誰ひとりいなくなったとき。こうやって人は死んでいく」。

コレクションという形でその素晴らしさを後世に残した方の名は、美術館の名前として、創設者として、残り続ける。身内で考えても興味深い。この言葉を解釈するに、死んだ親族もいま自分が存在しているかぎり、自分のなかで生き続けるのだ。人と名前、実に興味深い。