映画「走れ、絶望に追いつかれない速さで」を観た。
「走れ、絶望に追いつかれない速さで」を観た。
感想でいきなり持ってくる話題ではないのだけど。この映画、恋愛劇ではない。が、恋が見え隠れする。ぼくは、あえてまずここにふれておきたい。
主人公の「ぼく」は親友の彼女に想いを寄せていた。ふたりは別れた。複雑だ。そんな矢先、親友が死んだ。「ぼく」も哀しいし、元彼女もそう。そこから残された者の恋の発展とやらはいっさいない。みていてふと考えた。自分は「親友」なのか「ぼく」どっちなのか。なぜなら両方に感情移入をしていたからである。
もちろんそんな経験は一度もない。親友はいるだろうけど、その彼女と仲良くするとか、そういった人間関係を築いてこなかった。心のパーソナルスペースを一定の距離を保ってきた。現実で体感したことがなく、日常であり得るようなシチュエーションだからこそ、引き込まれたのだと思う。
都会のネオンの興奮と不安、モラトリアムとしての記号としてのタバコ。劇中の音楽。中二病の後遺症を引きずる「ぼく」と親友の日常のリアルに引っ張られたが、話の核となるのは親友の死の後だ。
残された「ぼく」がなにを考えて行動し、どのように生きていくかが描かれている。ちらっと他の方の感想を拝見してよく出てくる「意外とポジティブ」というのは当たっていると思う。
日常は退屈だし、仕事は大変だ。生きることってかんたんではないかもしれない。でも人は、日常の小さい幸せを見出すことができる生き物なのだと思う。光を探し出すことができる。タイトルにもある「絶望に追いつかれない速さで走ればいい」。心にくるものがあった。
自分が大事にすることのような考え方やファッション格好など、たとえば大学時代から一貫しているスタンスをとっていると、それなりに軸を持てるし、安定はする。同時に、ふと離れていた環境に一時的に戻って身を置いてみると「変わらないものがない」ことに愕然とする。
ぼくはそれを肉親や飼っているペットの年齢加齢にさえ感じることがある。自分も年を重ねているが、なんとなく大学時代から変わっていないような気でいる。要するに、自分のことはわからない。他人をみて悟るのだ。
今後もっと環境の変化が如実に出てくる。それは、結婚や出産などもあれば、当然死もあるわけだ。人生の谷を知ると、そこに登る山が現れる。ぼくは平坦な道を歩んでいる。でも、絶望はせまっていて、振り向いていないだけ。だったら、後ろに絶望がきている事実を知った上で、力強く前を向いて歩けばいいのだ。