209日(「おもしろい」のその先を考える)
「おもしろい!」
自分が感じたときはなるべくそのとき言うようにしている。飲み屋の会話一つとってもそう。そうやって相手の発言にラベリングすることで、宙に消えていかず自分のなかにストックされている気もする。否定するよりは、おもしろいを見つける人でありたい。そうやって考えてきた。
では企画をゼロから考えるとき、当然ながら「おもしろい」ものをアウトプットしたいと考える。あるものにラベリングするのはいいけれど、自分から出すときには注意が必要のようである。
要するに、自分にとっておもしろいと感じることは、他人にとっておもしろいとは限らないということ。そして誰に対してのおもしろさなのか、ここを明確にする。
こんなことを聞いた。「会場が真っ暗闇になっていて、誰が座っているかわからない講演会場で、みなさんは面白い話ができますか」と。たしかに誰かを設定しなければむずかしいだろう。あくまで他人に寄り添って課題を解決するものでありたい。
もう一つは、おもしろいは、アカウンタブル(説明可能)であるべきということ。自分の感性でラベリングするのはいいことだけれど、そのおもしろさとは何なのか。説明するのは意外とむずかしい。
ここの言語化は、ぼくはいまのところ向き合いたい。言葉にできないからこその〜のような文脈もあるけれど、これは人による。たとえばグッドデザインカンパニーの水野学さんは、センスの良し悪しもすべて説明できるとした。「センスは知識からはじまる」に詳しい。
そして「おもしろさ」に拘泥しすぎると、空回りすることがある。テストで100点とる昔の学習の仕組みとはちがうのだろう。
すこしベクトルはちがうのだけど、ある講演会で「おもしろくなりたい!」という若者からの質問へ答える糸井重里さんの言葉が印象的だったので、紹介する。
「古今亭志ん朝は志ん生から、面白くなるためにはどうしたらいいかときかれ、面白くしないことだと答えたことがある。あなたの中には面白いという記号がある。ここを押すとこういふうにウケるはずだという計算があって、そういう形で未来が見えてる。でもそんなのはみんな読めちゃうんです。本当に面白い人って無意識だからメチャクチャにボタンを押す。」
そう、みんなに読めちゃう。明け透けだと、なんか萎えちゃう。押し売りだと、なんかひいてしまう。
自分の説明できる「おもしろい」を、そのあとどうやってお客さんの目の前のテーブルにサーヴするか。このむずかしさと向き合うのも「おもしろい」。