DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

216日(歴史は現場がやはりいい)

いざ吉野ヶ里遺跡

こういう遺跡巡りはステキなガイドの方と当たると俄然おもしろくなる。佐賀を愛し、そして歴史を愛する熱いおじさまから、いろんな話を聞くことができた。

おじさまは、ぼくの思い込みを見事にときほぐして、ドラマチックに語ってくれた。歩く「そのとき歴史が動いた」みたいなかんじ。松平さんもびっくりだ。メモ。

・竪穴式住居は旧来のもので、高床式に時代と共に移り変わっていったのだと思っていた。教科書はそんなだのはず。

・実際は、寒さを凌ぐためにあえて竪穴式を採用していたという。佐賀の田舎では平安時代までそのスタイルを続けていたのだそう。

・敵を見張る櫓であったり、木造建築の技術はそもそものポテンシャルは高かった。何しろ木材で城をつくってしまう日本は、世界から驚かれる、木造大国なのである。

・平成元年、吉野ヶ里遺跡の柱が発掘されるまでは、卑弥呼そして邪馬台国は近畿説が濃厚だった。

・しかしこれらの存在は中国の魏志倭人伝にしか書かれていない。そしてその内容をしっかり読み解くと、吉野ヶ里遺跡で発見された柱や櫓の跡と合致する要素が多いことが見えてくる!さあ、九州説を唱える学者も出てきた。

・九州説が気に入らないのは近畿説を唱える方。なぜなら、古事記日本書紀では神武天皇から一貫した天皇制が日本の歴史をつくったと考えられているからだ。

・事実、それらの書物には邪馬台国の名前は出てこない。もちろん魏志倭人伝も、勝者の歴史である。皇帝が命令してつくらせた書き物である。

魏志倭人伝では、中国の自らの影響力を誇示するために、卑弥呼が遣いを送り、中国が邪馬台国へ金印を渡したことを「書きたかった」。ウソじゃん、という人もいた。

吉野ヶ里遺跡の発見が「魏志倭人伝って、わりと本気のこと書いてあるじゃん?」。魏志倭人伝の内容そのものの信憑性を上げたことはまちがいない。

・そして同時に、九州説が濃厚になるほど、歴史的に日本は中国に仕えていた、つまり属国だったという、いまの領土問題に通ずる歴史の解釈にまで影響を及ぼすのだという。

ガイドの福田さん、吉野ヶ里遺跡の顔になってもらいたいなあ。歴史、おもしろい!