DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

230日(タモリとキルケゴールの関係性)

敬称略。タモリといえば早稲田の哲学科を中退した人物。5歳の頃から達観した精神を持っていて、自ら選択して幼稚園には行かなかった。

ちゃんとしているもの、形式ばったことを偽善として拒むのがタモリ。クリスマスやバレンタインなどの記念日に対しても、一貫して反対したスタンスをとってきた。

たまたま昨日、92年の日テレ深夜番組「講演大王」を見る機会があった。タモリと哲学、タモリキルケゴールについてはたびたび語られているので、ここでちょっと整理してみたい。

 

【バーでの有名なエピソード】

ある大物作家とバーで話すことになったタモリ。住まいの話の流れから話題は坂となり、作家から「キミ詳しいね」と言われる。そこでタモリは坂を起点にこんな話の広げ方をした。

「ぼくは、人間の思想はふたつに別れると思うんです。平地の思想と坂道の思想。

平地の思想は、ハイデガーのように存在を時間の中で考えようとする。

坂道の思想は、キルケゴールみたいに、崖の上に立って自由意志が死を選ぶこともできる、というもので、非常に不安を覚える、というもので……。

先生の作品を読ませていただくと、傾斜の思想ですね」

詳しいエピソードは、ほぼ日のこちらが詳しい。https://www.1101.com/jazz/2005-01-02.html

 

【『タモリのTOKYO坂道美学入門』で書かれていること】

該当部分のページ抜粋

キルケゴールはその著作の中でこう言っている。人間とは精神である。精神とは自由である。自由とは不安であると。

精神の不安、自由の不安をキルケゴールはこう説明している。高い断崖の上に立って下を見る時、自分はここから飛び降りると確実に死ぬと予想できる。飛び降りる、降りないかは自分の意志の自由による。だから自由とは不安であると。

いっぽう、人間は平地では通常死をも選択できる自由に対する不安はない。崖の上では一歩踏み出すだけで確実に死ねる。これは位置エネルギーを人間が持ったためである。

位置エネルギーとは平地では何でもない小石でも、30メートル位のところから落とせば、かなりの破壊力を持つことができる。

つまり高さいう位置がすでにエネルギーを持っているということだ。坂道に暮らす人、あるいは上る人、この位置エネルギーを無意識に感じているのであり、そういう人の思想は、自分の自由に対しての不安がいつも存在しているのである。」

 

【「講演大王」で語っていたこと】

テーマは「わたしが各種行事に反対している理由とソ連邦崩壊の関連性」。ノーカット編集の実験的な番組。その第1回目ということもあり、タモリは内輪の盛り上げから徐々に内容へ入っていく。さすがにうまい。

内容は社会学的。自分を規定するものは、たとえばどこの会社だとか、どんな肩書きがあるとか、帰属するものに依存していると。そんな横軸がある。

もう一つ、他人による規定が縦軸。たとえば友だちが有名人とか、親父がどこどこ勤めであるとか。講演は本気ではなくて、縦と横の軸はなんとなくでしゃべっている。

ただ一ついえることとして、こういった社会性のなかで生きているわれわれは、記号に頼っているということ。そして交差する点のなかに「実存のゼロ地点」があるはずで、それを探すべきである。これがタモリの主張。

外からの規定ではなく、記号に依存せずに内から自ら決めていこうではないか。みんながやるから自分もクリスマスを祝うのではしょうがない。所属する国家でさえ、ソ連のように崩壊することもあるのだと。ざっくり、こんなロジックだったかな。

自分で決めればいいのに、人は不自由を求める。なぜなら自由とは不安になるものであるからだ。なんでも決めていいと言われたら不安になる。

つまり純粋な自分というものは、不安の存在であると言っている。すなわち「自由とは不安である。」

 

長くなったけれど、ここでキルケゴールとつながった!タモリはずーっと一貫した考えを持っている。この芯の強さは勉強になる。そしてなんだか、キルケゴールについても、わかったような気分がしてくるから不思議だ。