DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

258日(食について考えていること。)

過去を振り返りながら食について考えたい。

そもそも経済のはじまりは交換であり、贈与であるらしい。現代においてこんな話があった。アマゾン地帯に、いわゆる世間と断絶した独自の文化を育んできた民族がいた。調査部隊が接触を試みた際、まず相手の警戒を解くために木のボードにバナナを乗せて送った。すると相手からボードが送り返され、バナナの代わりに彼らの道具である矢があったという。つまりここに交換、贈与の原点が見えるわけだ。

食料の贈与、交換ははるか昔から行われてきている。そして民族は異なる相手との出会いがあった際、食事をふるまい、警戒を解いたり、懇親を深めたりしてきた。それはいまでも変わらない。会社という観点でいえば接待の食事が挙げられる。

接待の食事というと、あまりいいイメージを持っていなかったけれど、食の力をひしひしと感じている。感謝の気持ちを込めた食の贈り物で仕事が円滑になることは本当。それがやらしいと思っていた時期もあるけれど、事実なのだから仕方がない。

人間のプリミティブな感覚として食で安心、安堵、幸福の感情を得られる。クリーンに堂々と、ツールとして食と関わりながら、生きていこうではないか。

もう一つ、食の話。いまや「ひとり飯」は現代社会においてなんら違和感はないけれど、歴史としてはここ100年の出来事らしい。つまり、食事とは帰属するグループにおける共通体験であり、共通作業だったと考えられる。

個がもてはやされるなか、複数人で食事する行為そのものに価値が生まれている。キッチハイクという食べることが好きな人をつなぐコミュニティサービスがある。「食は知らない人同士を繋げることができるし、国も料理の種類も垣根がない」という理念で運営されている。

以前イベントで話を聞いたときは世界の料理を食べよう打ち出しだった。現在はもっとフランクに「みんなで食べよう」というシンプルなコンセプトになっている。マキタスポーツさんが「背景食い」というワードをおっしゃっていて、感心した覚えがある。誰かと食べるということは、シチュエーションであり、食における背景でもあるのだと思う。

ひとり飯とみんなご飯を、バランスよく。