315日(欠けていない時代に何を表現するのか)
現代はものが満たされている時代。不満のようなマイナスから生まれるクリエイティブ表現は、時代の性質上、過去は多かった。いまは画一的な時代にざっくりなってきている。そもそも表現のモチベーションが、自己実現やそういった欲求レベルを起点としたものになる。
何も欠けていなくて、吐き出すものがとくにない。だったら「その葛藤そのもの」を表現しよう。そうしてできた映画が、入江悠監督のサイタマノラッパーだ。三浦展的にいえばファスト風土化した埼玉の都市郊外で、都会でも田舎でもない街の男たちを主人公とした傑作ラップ映画。
ポストモダンのこの社会での表現論は、宇野さんのプラネットなどを読めば詳しく書いてありそうだ。昨日、知り合いと話をしていて創作の話題となった。入江悠監督はまさに自分の生まれ育った環境をベースとして映画をつくりだしたわけなのだが、小説家にはこれを含む3つの方法論があるという。
まず一つが、前述した、経験を基にすること。その時代、その場所で経験したからこそ、あなただからこそ書けること。ぼくは創作における環境要因はあると考えている。才能と置き換えるとわかりやすいかもしれない。
お笑い芸人でいえば、キャイ~ンの天野さんに言わせれば、ウドちゃんは地元山形の環境がつくった天才だという。つまりウドちゃんが都会で生まれていたら、ああはなっていなかった。その環境が後天的にその人の才能や、考えるベースをつくり、アウトプットまで影響することはまちがいない。
もう一つが、努力による完璧主義。お笑いのわかりやすい例でいえば、アンジャッシュのすれちがいコントのような完璧なネタ。小説でいえば、筋がしっかり構築されていて、伏線もあり、完成度の高い作品。構造的につくられる小説は努力である程度完成度が上げることができるという。
そして最後が想像性。たとえば漫画のワンピース。尾田栄一郎さんは想像力であのファンタジーの世界をつくりあげる。想像力があれば、実体験がなくとも、まったく新しい世界を描くことが可能になる。
で、これら3つをすべて練り込んだ作品があるという。その作品が「スロウハイツの神様」。そんなプレゼンをされたら、読みたくてたまらない。まずは上巻を購入。楽しみ。