325日(「っぽさ」の正体をつかむために)
「っぽさ」とはなにか、学生時代からずっと関心のあること。
着メロ全盛期を経験して
90年代後半から着メロ全盛期、2001年以降だが、ぼくは着メロにどっぷりつかった。2004年からMP4の規格が出て、着うたフルが生まれる。そうしているうちにiPodの勢いによって蹴散らされてしまったが、絵文字や着メロなど、独自の文化が育ったと、ふりかえりながら思う。着メロでおもしろいなあと思っていたのが、曲を聞いてアーティストを当てるクイズ。各々が自分の好きなアーティストの曲を入れているから、すべてが新曲とは限らない。
遊んでいると当然知らない曲に出会うわけなのだが、そこそこ正解を出せるのがおもしろい。たとえばなんとなくメロディを聞いてaikoっぽい印象があったので答えると正解!また、曲調からジャニーズっぽいのはたしか、そう思って「KAT-TUN!」と踏み込んだところ正解は嵐(なんの曲かは忘れてしまった。)、なんてこともあったことを記憶している。
aikoっぽさ、ジャニーズっぽさ、そのなかでもTOKIOっぽさ、この正体は何なのか。音楽の理論を学べばみえてくるのか。カノン進行とか、そういったコードとの関係はあるのか。
漫才文体論と文体
音楽にとどまらない。mixi全盛期、日記のなかで好きな芸人のオリジナルネタを勝手につくって公開していた。「つくりやすく、読んでもおもしろい」という観点では、ナイツがピカイチ。ぼくはサンドウィッチマンのネタをよくつくっていた。好きがこうじたものだったが、あるときサンキュータツオさんが漫才文体論というライブを行って衝撃を受ける。
これは、サンキュータツオさんが各芸人さんの「っぽさ」を抽出し、漫才ロボットとならぬ若手芸人コンビに台本を渡して演じさせる。すると、どうだろうか。アンタッチャブルっぽいネタ、アンジャッシュっぽいネタを通じて「っぽさ」が浮き上がる。
ここで文学においての「っぽさ」文体の存在を知る。文章の書きぶりにも、その作者らしさ、つまり「っぽさ」が垣間見えることがある。和田誠さんの「倫敦巴里」は文章と絵それぞれで文体を遊んでみせた。タモリも好む、高度な遊びだ。
自分の手足を動かす
そろそろインプットではなくて、アウトプットして「っぽさ」を自分でかんで味わえるようになりたいと思い立った。まずは絵、似顔絵の領域。なぜ線と点だけで「その人っぽく」見えるのだろうか。絵心をつけるために、初心者の描き方講座の本を購入。まずは最低限の勉強をしてから似顔絵をかけるようになろう。
音楽もそう。EYS音楽教室がおもしろいと知って興味を持っているが、まずはマキタスポーツさんのコード的な切り口から「JPOPはパクリである」の本を読もう。自分の手足を動かす必要性にうまくのっかろう。