DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

354日(区別の功罪について考えてみたい。)

区別の功罪について考えてみたい。

というのも、『情報の歴史』という本を読んで衝撃を受けた。7000万年前から増強版の出版に合わせた当時最新の1995年までの情報文化史。いや、まさに大年表。これほどのビジュアルのセンス、有無を言わさない精緻な情報、大胆なスケッチを他に誰ができるのだろうか。『サピエンス全史』を読んだときに感じたダイナミズム。(もちろん『日本全史』が新聞調でアプローチするなど、類書は皆無ではないが。)

松岡正剛氏がよく言われている、織田信長とエリザベス一世は年が一つ違いであったり、1000年頃に東西でみると母国語が固まって奇しくも終末論も同じくして出現するなど。こういった事柄は、世界の出来事を一緒くたにしなければ浮かび上がってこない。日本史と世界史という区分けでは、見えてこない領域があるのは確かだ。

アカデミックでいえばこのような日本史/世界史。文系/理系という区分けも当然ある。一時期盛り上がったリベラルアーツ教育は大枠の考え方として賛成だ。なにかを分けるのは、専攻という観点ならよくわかる。突きつめていく領域として、能動的に選択していけばいい。

教育の他にも世の中見渡せば、区分けされているものはごまんとある。分けることで合理的にわかりやすくなる。その一方で、これまで区分けされているものを、ズラして、再構成するような「見方」によって、新たな視座を得ることも可能なはずだ。

たとえばお笑い。とくに玄人のなかで一部軽視されているリズムネタ。テレビ史でみれば「一過性でテレビサイズ特化型の芸」という見方もあるかもしれない。しかし、日本芸能史という文脈でみれば、音楽と笑いは古来親和性があって切っても切れない関係というのはすぐにわかる。そこからの系譜を見ていけばいまのリズムネタが、またちがったものに見えてくる。

業界もそうだ。たとえばマスコミ。ハードとソフトの二分において、たぶんバランスがよくなかった。ハード(媒体)が強すぎた。テレビ・出版・ラジオ・映画など出力するハードで「マスコミ」「メディア」を語ってきた。そろそろ時代も転換点を迎えているはず。マスコミしかり、メディアしかり、再定義が必要になってきている。つまり、これまでとちがった見方で、ちがった区分けをすべきなのである。ここはもうちょっと説明したいところなのだけど今日はこんなところ。

異なる分野・ジャンルでも一つの切り口によって区切ることで、同じ目線で語ることができる領域はきっとある。仮にだけど、「日本の勝負師、勝負史」という見方をした場合、麻雀の桜井章一氏、ゲームの梅原大吾氏はくくれるはずだ。同年代でなくてもプロモーターなら小谷正一、ボクシングなら帝拳。逆に「いま」ならラストアイドルの出演者やユーチューバーも入るかもしれない。

芸人や歌人、小説家が参加する「共感百景」という企画は、まさにぼく好みだ。テレビでもこういった区分けしないジャンルレスの試みがもっと増えてもおもしろいなあと。