DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

361日(いまの時代こそ「遊び」を考える)

これからは「ひまつぶしの時代」になる。

余暇の過ごし方をわざわざ学ぶようになる。これからも大手企業は消費促進のために「大人の遊び」を提供し続けるだろう。しかしぼくは、もっとプリミティブな感覚を持って、「遊び」というやつに向き合ってみたい、そう考えている。

まず現状としてAIの登場など技術発展によって労働効率が向上していくと言われている。資本主義における企業の論理として効率を優先するのは当然だ。肉体に負荷がかかる大変な仕事も機械にまかせて、ちがうところで人を活かす流れになる。総じて人はあまり働く必要がなくなってくる。

社会が成熟し、ベーシックインカムの考えも出始めてきた。医療の発達によって人生100年時代の到来が謳われている。65歳でリタイアしたとして、あと35年。いよいよ「ひま」になってくる。

そもそも歴史を振り返れば、昔の方が一般的には「ひま」だ。週5日制の労働システムは明治以降に定着している。江戸時代はなんとなく想像できるが、さらに以前の生活にふれた最近の名著「サピエンス全史」。

稲作をするようになって食料と人口は増えたが、狩猟時代よりも栄養は取りにくくなり、何より農業の管理に時間をとられるようになった。人は稲作の奴隷になったと著者は表現した。稲の立場からしたら、生き残り戦略に成功した。もっとも狩りの時代では、食料となる獲物さえ満たされていれば、農業にいそしむ必要もしない。さぞ「ひま」だっただろう。

ここからが本題。ロジェ・カイヨワは「遊びと人間」という本で、遊びを4つに分類した。

①アゴーン(競争)
②アレア(運)
③ミミクリー(模擬)
④インクリス(めまい)

これがめちゃくちゃ興味深いので、松岡正剛氏「知の編集術」での紹介を要約・引用しながらかんたんにコメントをしていきたい。

①アゴーンはおおむね競争のことである。ひとつの境界の内部で争われる遊び。ただし、従来の市場競争のようなものは含まない。もっと相互限定的で、痛快で、結果が時間とともに明らかになる競争遊び

→たとえば「鬼ごっこ」や「どろけい」のような遊びだろう。「どろけい」なんかはメンバー同士の共通認識に依存することで成立している。捕まったら素直に認めて牢屋と呼ばれる場所で待機する。そこで味方を待つわけだ。もちろん見張りがそこにいる。いまになっておもしろく感じてきた。

②アレアはラテン語でサイコロ遊びのことで、相手に勝つだけが目的ではなく、そこに見えない「運」と戯れることを遊びにする。トランプや麻雀や花札ようなゲームがアレア。占いなどもそう。

→ぼくは格闘のテレビゲームの必殺技なんかにもそれを感じたことがある。なんかの拍子に最強の必殺技なんかが出るのだけど、それはやりこむ努力の先にあって、おもしろかった。なかには隠しコマンドとして「出し方」はあるのだけど、知る前の方が「おもしろかった」。なぜならそこに「運」がある気がしていたからだ。運と戯れるというのはいい表現だなあ。

③ミミクリーは真似の遊びを指している。何かを模倣したり転写しながら遊んでいく。つまりは「ごっこ」にあたる。すでに先行している思索のパターンや行動のパターンを積極的に真似ること。

→小さい頃をふりかえると、いわゆる「ごっこ」遊びとは縁が遠かった。もったいないことをしたといまになって思う。おそらくままごとは女性の遊びであって、男性は外で元気よく遊ぶもの。そんな先入観がいつの間にか根付いてしまっていたのだろう。モノマネはみるのもするのも好きなわけだったし。

余談だが、小さい方々のままごとのセリフには時折、大人がギョッとしてしまうような模倣、踏襲が垣間見えるようだ。要は、子供は大人をよくみている。

④インクリスはめまい・痙攣・トランス状態をともなう自己編集的な遊び。子供たちがくるくる回転したり、阿波踊りに熱中したりすること。もともとシャーマニズムを背景に発達したもので、我を忘れて渦中に入るという意味を持っている。

→熱中することを実は子供は探しているのではないか。砂場の穴掘りを徹底的にやっていてある種のトランス状態になっていたことがあった。おもしろいのは、翌日になると、まったく飽きてしまっていること。熱中状態になるのは偶然の要素があって、あのとき、あの場で、あのメンバーで遊んだから「熱中」できたという、それこそ運の戯れがあった。

カイヨワはさらに遊びの背景には、「パイディア(興奮)」と「ルドゥス(困難)」がつきまとうと分析した。忘我の状態となり、あえて困難に立ち向かう。そこには利得を超えた無償性が存在している。大人たちの遊びはついつい欲得ずくになる。なるほど、遊びの原点回帰を考えるのはおもしろいかもしれない。

遊びをもっと、考えよう。