374日(たとえ言葉と、鴨長明から考えること)
何かにたとえること。
いろんなたとえ言葉がある。くりぃむしちゅー上田さん、フットボールアワー後藤さんの「たとえツッコミ」のような切り口もある。たとえ・見立てをした著名人の発言をみていくと、笑いに直結させるたとえもあれば、名言や大切な言葉もけっこうあると感じている。
「思考とは、タケノコのように大部分は土に埋もれている」阪田三吉贈名人
たとえば、明治から昭和にかけて活躍した将棋棋士の言葉。芸能人でいえば、島田紳助さんは下ネタから名言まで、たとえ言葉を自由に操っていたなと。
考えてみると和歌では、花の美しさとはかさなを、人の人生に見立てて、あはれを詠んでいる。自分の人生や時間、運命を考えては、自然のものに見立てていく。いや「託している」ような印象をもある。
鴨長明の方丈記。有名な冒頭な部分。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくととりたる例なし。世の中にある栖と、またかくのごとし。」
移り行くはかない人生を河に見立てて、なかばあきらめのような態度で表した。杉本博司氏の言葉を借りれば諦観と「もののあはれ」を見事に表現している。
鴨長明は社司の家に生まれるも、琴の曲を外部に漏らしてしまい、文化サロン界隈から追放され、世捨て人の身になってしまった。その運命を肯定的にとらえ引き受けた。そうして「人は方丈(四畳半)の大きさあれば生きるに足りる」として、かの方丈記をつくりあげた。
鴨長明は実際にそのような方丈で生活をした。その方丈跡はどうやら京都にあるらしい。ぐっとくるものがある。ぜひ一度いってみたい。
流れるときのなかで、機微をとらえ、見立て託し、歌にしたためる。昔の日本にはいまを生きる大事なエッセンスというかヒントがあるように思う。日々なにかを感ずることは、生活の連続のなかで、さびついてしまっているのではないか。「感じること」を目的とした旅もいいなあと。
鴨長明の方丈跡。あとイサム・ノグチ庭園美術館、あそこは香川県にある。あとはどこだろう。そうしてよくばって地方の美術館巡りになってしまいそうだ。いずれにしても、そろそろいかなければ。