DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

380日(文化としてのテレビ好き)

「文化としてのテレビ好き」
今まで「テレビ」に対して、こう表現をしてきた。この3連休、実体験を記憶から取り出した関係で、アタマにある過去の引き出しの整理がついている。このタイミングで、自分がテレビをどうとらえたのか。その原点を、ここで考えてみたい。

考えようとしたきっかけは先日Twitterを見ていたとき。ぜんじろうさんに関するツイートが目に飛び込んできた。ぜんじろう、とは。関東の方は、なじみがあまりない方もいるかもしれない。ぼくのテレビ体験として重要な方のため、知っている限りの情報を(記憶だのみで)まず、かんたんながら説明をしておく。

ぜんじろうさんは吉本所属のお笑い芸人。大阪では当時、上岡龍太郎に師事を仰いだ。たしか美大出身。吉本からはその風貌見た目と話し方から「平成の明石家さんま」として猛烈なプッシュがあった(たしかに似ている)。あれよあれよの間に自身がメインの番組を持つことになる。代表は「テレビのツボ」。その後、活躍の場を変えたり、広げたり。ロボットとの漫才も話題を呼んだ。現在は英語での漫談、いや、スタンダップ・コメディを確立。海外での活動も多いようだ。

スタンダップ・コメディは、経堂にある「さばの湯」で生で拝見した。海外のショー事情や政治背景もからめたトークは新鮮でいて知的でクール。おもしろかった。ぼくは「平成の明石家さんま」時代をリアルタイムではまったく知らない。なぜ、知っていて好感を持っているか。それは、2000年代初頭の番組、テレビ神奈川「あっぱれ神奈川大行進」を観ていたからだ。活動の場を変えていた時期にあたるのだろうか。

「あっぱれ神奈川大行進」をはじめ観たときはまだ小学校の高学年。ローカル番組ということで街ロケ中心なのだが、これがおもしろかった。たしかデビット伊東さんも出演していて、後にメインになるんだっけ?そこの記憶は曖昧。とにかくぜんじろうさんを知って、子供ながら衝撃を受けた。さんまさんを感じずにはいられないし、だけど知らない。でも、おもしろくてふるまいも完成されている。「関西には、まだまだすごい人たちがいる!」こう思ったのである。

ぼくはテレビバラエティの世界を少年マンガのような見方をする。そう見立てるようになったのは、おそらく上に記したテレビ体験がきっかけだ。のちに「たかじんの胸いっぱい」でやしきたかじんさんにも衝撃を受けることになる。「強いヤツがまだまだいる!」

テレビには地域差と世代差があると考えていて、それを埋めるのが、ウェブや放送ライブラリーや、いつかつくりたい国会図書館のテレビ版になるわけである。ただ当時の自分にとって、その差から生じる「知らないテレビスター」にワクワクしていた。少年マンガでいえば、別の場所にもっと強いヤツいるよ=地域差、昔はもっと強いヤツがいたよ=世代差。これらをつくり手が利用することって本当にあると思う。インフレが起こることもある。でもマンネリは解消できる。まさにぼくが、そうだった。

2004年からはYouTubeが台頭する。昔や関西のテレビの情報が(本当はダメ)入ってきやすくなる。また、2000年初頭、ホームページビルダーでつくったような「テレビ芸人たちの共演実績をまとめたサイトなるもの」があった。読みあさったのを覚えている。当時からとんねるずとダウンタウンには関心があって、もし「食わず嫌い」にダウンタウンがゲストで登場したら、なんて妄想をしていた(それゆえ、「いいとも」の最終回の驚きと感動はひとしおだった。)。

ちなみに2ちゃんねるには、お笑い専用の場?板?があって、とんねるずをTN、ダウンタウンをDTと表記して、熱い議論をしている人たちがいた。こわくてすぐ閉じたけど「あっ自分だけじゃないんだ」と、すこしほっとしたことも思い出した。

ひととおり現在の東西のテレビバラエティのスターたちを可視化すると、今度は昔が知りたくなる。ルーツを知りたくなる。格闘技でいえば、木村政彦のあとにその師匠の牛島辰熊の存在に興味を持つようなことだ。ドラゴンボールのバーダックの時代が妙に「カッコよく」感じることってあると思う。

そうやってタモリのルーツで赤塚不二夫、大橋巨泉、クレイジーキャッツ、青島幸男。ビートたけし、さんまからは昔の芸能、落語を知り、立川談志、エノケン、ロッパ、エンタツアチャコ。小林信彦の著書からテレビ創世記を学ぶようになる。

駆け足になってしまった部分も多いのだけど、そうやって、いまのぼくがあることを再認識した。「ルーツ好き」がいま日本文化にきているのか。ここからは、もっと広い領域になってくるぞ。