DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

381日

今日はあらためて「律する」ことを考えたい。
自分を律する。それは自らを知ることであり、労ることであり、愛することでもあると思う。ただむやみに厳しくするのではない。律するというニュアンスは、ぼくのなかでは楽器の弦を調整することにちかい。「調律」という言葉があるように。

ちょっと楽器の音の調子が乱れてきたときに、弦をピンと張るように調整する。張りすぎてもよくない。弦がキンチョーしすぎていると、ちょっとした刺激でプツンと切れてしまうおそれもある。弦そのものは意外ともろい。自分という楽器を知ることでうまくチューニングをしてあげる。

そういえばメリハリという言葉は、邦楽用語で音の高低を表す、減り(メリ)と上り(カリ)が転じてできた。生活リズムがあるように、日本人の生活と音楽には深い関係があるかもしれない。

自分を見つめることはおそらく、よくするほうだ。だけど、音楽の例のように、自分とパーソナリティとしての弦楽器があるようなイメージを持っている。いったん自分を切り離せるように。身代わりがある状態ともいうべきか。要は、思考が内向化しすぎるのもあやうい。カラダとココロを一つとして、全部自分で背負い込みすぎると、これもキンチョー状態になる。ここのバランスがむずかしい。個の時代になってしまったいま、避けられないテーマか。

個人と集団。人間と社会。ベンヤミンは「パサージュ論」で、個人の外部性と集団の内部性の関係性を綴った。資本主義社会が発展するなかで都市と社会は複製されていくと。では日本。江戸時代にはそもそも個人と集団という概念がなかったと説いたのは田中優子さん。その証拠に、明治時代の初頭、日本人は行進がまったくできなかったらしい。つまり、集団行動ができなかったと。単位は家や街だったとして、当時は全体のなかで生きている、生かされているという意識が強かったのだろう。

全体の一部として生きる。欧米諸国の個人主義的な考えを踏襲しすぎるために、必要のない悩みを、ぼくたちは持ってしまっているかもしれない。「そもそも個人単位で物事をとらえるなよ」って。とはいえ、「君たちはどう生きるか」という時代である。明治時代の著書が、現代でリバイバルされ、共通のテーマとして、いまの多くの人たちに受け入れられている。


律するに戻ろう。チューニング宣言をするのは時間の使い方。年末からここまでの休みにかけて、あまりにも時間かまわず本を読みすぎた(最高の読書体験だったが)。そろそろ、ね、というところ。

ダイゴさんの「超集中術」をふたたび出す。集中力30分限界説に基づいて、27分1セットを徹底する(3分は次のセットへ向けた小休憩)。「まだ、できそう」だとしても27分で一度区切り、3分休む。メリハリだ。これらセットをTo Doリストで管理する。

メリットは大きく3つ。まず、予定をたてる&実績の循環、フィードバックによって、管理能力を高める。次に、リスト化によって1日の時間を可視化させることができる。あとは、区切ることによる質の向上。そして明日やることはその日のうちにリスト化していく。それぞれに何セット必要かを明記する。「【×2】企画書」のように。

今日と明日を分けない。「分つ」ではなく「つなぐ」。連続性を意識する。全体の一部として生きている。つながっているからこそ、明日やることを考えて眠りにつく。だから、起きる動機が生まれ、早起きができる。そういう生活リズムにしていこう。