DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

386日

本のことを考えている。本の魅力にとりつかれている。
「読書とは、作者との対話である」。これは松浦弥太郎さんの言葉。その通りだと思う。作者の言いたいこと、世界観が本にはつまっている。その人の本をたくさん読むと、会ってもないのにその人が近くに感じられる。あまりにも日本のお昼にとって身近な存在となったタモリさんも、その親近感のベクトルで語ることができそうだ。

ぼくはいまいくつか並行して本を読んでいる。そのなかで「対話」をより意識しているのがLineの田端さん。対談記事やイベントで拝見して(そういえば質問したなあ)Twitterもちょくちょく拝見している。おもしろい方だと思う。そんな田端さんの著書「メディアメーカー」は読めていなかった。

知り合いのプロのブロガーからオススメされてそのままだった。いけないいけない。メディアの端くれで従事する者として読まなければならぬ。Twitterでフランクにつぶやきをされている田端さんしか知らないようなもの。せっかくなので、対話するように、心してちょうど読み始めたところ。

本とは対話である。対話が理想。ただの受身、一方通行の読書にならないようにはどうすればいいか。受け手にはいくつかの要素が必要となる。カンタンにいえば、受け手に体力が、まず要る。たとえばクタクタになって帰ってきた夜、1Hの自由な時間ができた。さあ、何をする?おそらく本は選べない(漫画はあるかも)。

人は疲れているときほど、ラクな方を選択する。それがテレビであったりスマホだったりするわけだ。YoutubeやFacebookの短い動画をみてしまう。かわいいペットの動画をずーっと見ていると「あっ自分疲れているな」って思う(私だけでしょうか)。

要するに、本つまりテキストメディアを読むには、それなりの体力がいる。集中力。自由な時間ができたとして、読書を選ぶのは、逆説的にいえば調子がいいときともいえる。ぼくは自分がたくさん本を読んでいるときほど、「調子いいな」と思う。バロメータになっている。

最近感じるのは、読書にあたって、肉体としての体力と、経験としての筋肉。この二つの力が必要ではないかなって。前者は言わずもがな。後者でいえば、たとえぼくがどんなに体調が優れいていても、マルクスの「資本論」はいきなり読破できない。理解できない。その筋肉が付いていないからだ。

しかし、「理解できるようになりたい!」と周辺の本を読んでいくと、これがいつか本書を読んだとき「わかる!そういうことか」となる。対話できるようになる。ここも、本のおもしろいところ。一筋縄でいかない領域ももちろんあるわけで。

先日のアメトークの読書好き芸人の回で、又吉さんが調子がいいと難しくても好きな本だとスイスイ頭に入ってくると言っていた。それもあるなと。読むそのものの慣れもあるし、調子の良し悪しもある。もちろん映像にも「みる」リテラシーが求められる作品もあるし、すばらしいものもたくさんある。けれど、もうすこし、本のおもしろさに浸かっていよう。