DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

388日

好きなこと、調べたいことを、とことんつきつめたい年始。
引き続き、テーマは日本であり、日本文化だ。知ろうとすればするほど、自分が日本を知らないことがわかる。そこが日本の奥深さであり、おもしろさでもあるんだと思う。

日本文化を扱う本において、過去の偉人の作品について言及がある。前々からぼくが感心しているのは「スキ/キライ」の目線を持って、過去の作品について発言されていること。今日は著名な作品に対して自分の「好き」を持つことについて考えたい。

たとえば司馬遼太郎とドナルド・キーンは、本居宣長のある作品について、日本語が不自然として好まないと語っていた。(たとえ不自然さに気付いたとして、自分の「スキ/キライ」に照らし合わせて作品をみることができるか。。)

日本文化を語る文化人はさらに「スキ/キライ」にあわせて「ほめる/ほめない」の軸を持っている。松岡正剛も千夜千冊のなかでよく「上手い」「上手くない」という表現を使用している。自分の評価軸が定まっているとこのようなことが言えるんだろう。

これまでぼくは、とくに歴史のある作品について「事実」としてしかとらえてこなかった。味わうことができなかった。2軸をいきなり持つことはとうていできない。まずできることは意識的に自分の「好き」を見つけていくことだ。このあと読む予定の樋口一葉の「たけくらべ」は一作品として楽しませてもらおうと考えている。

「人」から好きになることはできていた。日本最後の文人といわれる富岡鉄斎しかり。発言を知って好きになったのは良寛。印象派展での姿勢をみて好きになったピサロ。最近は、その奇人ぶりを聞いて好きになった平賀源内。好きにもいろんな入り方がある。あと思うのが、画は感覚として好きをつくりやすい。勝負したいのは文学作品だなあと。

いずれにすいても人→作品のインプットがまだまだできていない。文学作品でいえば、あえて原文で読んでみるような気概を持てるように。最近は近松への興味をようやく持ってきた。浄瑠璃、作品を味わって自分の好きを芽生えさせられるよう、外堀を埋めていきたい、そんな元日。