DEPPA少年の日記

某テレビ局の会社員。27歳。「小説だからこそ本当のことを書ける」という小説家の言葉を参考に、あえて匿名でブログを書いています。28歳の誕生日までのカウントダウン方式を採用。

208日(イニシアチブを加点方式で!)

「信用を積み重ねるのはむずかしいけれど、信用を失うのは一瞬」。

ざっくり、大きな意味で信用というものは減点方式ということである。失うときにどんどん数値が動いていくようなイメージ。

本日、WOWOWのボクシング専門番組「エキサイトマッチ」の共創イベントがあった。そこにワークショップで協力いただいた会社の方から、こんな話を聞いた。

対会社との関係性において、加点式を心がけていると。何か起きても、加点のおかけで0.1残っていれば、前向きの話ができるんです、と。

信用は減点方式かもしれないけれど、日々の行いは加点方式で生きればいいのではないか、たしかにそう感じた。

べつに媚びを売る必要はない。だけど、マインドとして加点できるように相手に対して想像してふるまうということ。

ぼくはいわゆる営業的な経験を踏んできていないとことに対してコンプレックスがあった。先方とフラットな関係性を保てるのは、自分が発注側の立場であるというジレンマ。

しかし知り合いの担当者は、営業という立場でありながら相手との対等の目線を心がけて接する。ぼくが思ったのは、対等だからこそ加点方式の思考になるのはではということ。

ヘコへコして自分の持ち点をいかに無くさないかを意識すると減点方式になっていく。どうしても立場のちがいが明確にならざるを得ない。だからこそ、関係性においてイニシアチブをとることで対等な営業関係を築くことが大切。

その場合は短期収益的な観点において非常にいいヒントが出そうだ。対等だからこそ、ゼロから足していく。つまり加点方式で生きてみたい。

209日(「おもしろい」のその先を考える)

「おもしろい!」

自分が感じたときはなるべくそのとき言うようにしている。飲み屋の会話一つとってもそう。そうやって相手の発言にラベリングすることで、宙に消えていかず自分のなかにストックされている気もする。否定するよりは、おもしろいを見つける人でありたい。そうやって考えてきた。

では企画をゼロから考えるとき、当然ながら「おもしろい」ものをアウトプットしたいと考える。あるものにラベリングするのはいいけれど、自分から出すときには注意が必要のようである。

要するに、自分にとっておもしろいと感じることは、他人にとっておもしろいとは限らないということ。そして誰に対してのおもしろさなのか、ここを明確にする。

こんなことを聞いた。「会場が真っ暗闇になっていて、誰が座っているかわからない講演会場で、みなさんは面白い話ができますか」と。たしかに誰かを設定しなければむずかしいだろう。あくまで他人に寄り添って課題を解決するものでありたい。

もう一つは、おもしろいは、アカウンタブル(説明可能)であるべきということ。自分の感性でラベリングするのはいいことだけれど、そのおもしろさとは何なのか。説明するのは意外とむずかしい。

ここの言語化は、ぼくはいまのところ向き合いたい。言葉にできないからこその〜のような文脈もあるけれど、これは人による。たとえばグッドデザインカンパニーの水野学さんは、センスの良し悪しもすべて説明できるとした。「センスは知識からはじまる」に詳しい。

そして「おもしろさ」に拘泥しすぎると、空回りすることがある。テストで100点とる昔の学習の仕組みとはちがうのだろう。

すこしベクトルはちがうのだけど、ある講演会で「おもしろくなりたい!」という若者からの質問へ答える糸井重里さんの言葉が印象的だったので、紹介する。

古今亭志ん朝志ん生から、面白くなるためにはどうしたらいいかときかれ、面白くしないことだと答えたことがある。あなたの中には面白いという記号がある。ここを押すとこういふうにウケるはずだという計算があって、そういう形で未来が見えてる。でもそんなのはみんな読めちゃうんです。本当に面白い人って無意識だからメチャクチャにボタンを押す。」

そう、みんなに読めちゃう。明け透けだと、なんか萎えちゃう。押し売りだと、なんかひいてしまう。

自分の説明できる「おもしろい」を、そのあとどうやってお客さんの目の前のテーブルにサーヴするか。このむずかしさと向き合うのも「おもしろい」。

210日(「人を笑わせるとは何か」まで考えた)

ここまで笑ったのは、いつぶりか。

漫談家街裏ぴんくの独演会が吉祥寺の武蔵野公会堂で行われた。そもそも街裏ぴんくとは何者かというと。ものすごいディテールがリアルで、完全に嘘のエピソードを繰り広げる漫談家鈴木おさむさんは星新一筒井康隆に例えていたが、強ち間違いじゃない。センスの塊。

経験主義ですべて実話のコラアゲンはいごうまんとは対極のベクトル。ちなみにぼくは両人ともに好きだ。その意味では徳川夢声が確立した、漫談というマイク一本ひとり喋りに大きな可能性をあらためて感じるのである。

まさに笑い疲れるとはこのことだった。パキッと2つに割れるアイスでおなじみパピコがつくった、虎ノ門からほど近くにあるパピコパークへ行ってきたという話。

後半にさしかった頃、ぼくは彼に異世界へ誘われ、笑いの「ゾーン」のようなものに入ってしまった。初めての経験だった。脳内麻薬というか、頭のなかで何かが起きていたのだけど言語化がまだできない。笑いの反応に自分の肉体がついていっていないイメージ。

ここで冷静に立ち返ると、人を笑い疲れさせることって、じつはものすごいことなんじゃないかと思う。自分の記憶を振り返ってもそうそうない。演者の視点からすれば1対nで何人もを笑いの「ゾーン」に入れるのだから、もはや恐ろしい。

もちろん上岡龍太郎の言うように笑いとは空気である。独演会で街裏ぴんくをみんなが観にきて、笑いにきている。たしかに観客の皆さんのおかげもあって非常によい雰囲気だった。

それでもだ。ひとりの芸人が、漫談という言葉の芸でここまで人を笑わせることに驚きを隠せない。いやあ脱帽。

立川談志がイリュージョンと呼んでいた領域がある。やりとりそのものに意味はないんだけど、脈絡のない会話が妙におかしく笑ってしまうようなあの感覚。そこを構造化した小説のようなSFのような異世界は、笑いとの親和性があるのだと思う。そこを開拓し、証明して見せているのが街裏ぴんく

「どうやって脚本(ほん)を書いているんだろう」と同業のプロが唸るネタがある。ぼくはただのファンだけど、多くの同業の芸人が、街裏ぴんくの笑いに嫉妬しているはずだ。

「人を笑わせるとは何か」という原点まで考えさせる街裏ぴんくを、ぼくは人生をかけて応援したいし、自分のこれまでのすべてのインプットをかけて、おもしろさを保証したい。陳腐になってしまうが、あえて言う。街裏ぴんく、オススメです!

211日(自分の承認欲求を承認する)

つい先日、放送作家の知り合いとごはんを食べた。ぼくと放送作家おふたり。そのうち、ひとりが同世代。その方が途中、ふともらした一言が印象に残っている。「承認欲求がとまらない」

その方はもともと高校時代からお笑い芸人として活動している方。つまり舞台を経験している。だからこそ、彼の言葉には説得力があった。

放送作家という職業は、ぼくがもともと憧れていたこともあるし、この仕事ができる方はテレビ以外なんでもできると思っている。実際、彼もテレビのほかにYouTubeなどウェブの仕事も多くこなしている。

ぼくは応援する言葉をかけて、興味深く話を聞いていた。だけど自分にも少しは欲求はあるだろうと思うのだ。たとえば最近、また始めたNews picksでも、自分がピックした記事のコメントに対して「いいね」が付けば嬉しいもの。

ウェブに関していえば、ぼくの原点は高校時代。2006年、当時はmixi全盛期。クラスのみんなが日記をしたためた。マイミク同士、紹介文を書いた。そのなかでぼくは日記を通じて、プロのお笑い芸人のオリジナルネタを創作して発表していた。

たとえば、もしサンドウィッチマンが「占い」というネタをしたら、こんなかんじになるだろうみたいな。そんなコント台本を日記にアップしていた。

たしか当時も「いいね」のような機能があって、マイミクではない外部の方からもほめていただき、つまり「承認」をしてもらって、純粋に嬉しかった。

ある意味、放送作家のような真似ごとを趣味としてしていたわけだけど、それを本業としてやってるプロからすれば、承認欲求が強いのは当然のこと。承認のレバレッジが効いてるからだ。一度知ると、その上を求める。ぼくはそれを言葉にするところが潔くていいなあと思う。

そして自分だって承認欲求は少なからずあるんだ。ここを認めることから始めないと。

糸井重里さんはかつてこんなことを言っていた。「お金と性は似ている。自分を横に置いてしゃべれる人はたくさんいるけど、ちょっとでも自分をまぜようとするとたいへんなことになっちゃう」

SNS全盛、個人の時代。外野の立場からはいくらでも語れるけれど、「承認欲求」を自分の横に置いてしまいがち。まずはそこを承認してからだ。

212日(「ミッションは武器になる」は本当だろう)

「おとなの!」での武井壮さんの授業をふと思い出した。

たしかYouTubeに公式としてUPされているはず。おぼろげな記憶だけど、スポーツマンとしてお金を多くもらえるかは、幸せにできる人の数に比例するという話だった。

たとえば世界で活躍するサッカー選手がなぜあれだけ高い年俸をとるかという、サッカー観戦をする人たちが世界中にいて競技として人気があるから。つまり、それだけの人を幸せにするから、という理論だ。

武井壮さんは自身の運動神経やそのポテンシャルを持っても、純粋に陸上競技としてはプロとしてお金を稼ぐことができなかった。

そこで彼は努力して、芸能人からヒントを得ようとする。トークで人を魅了するタレントはどれだけすごいのか。実際に間近で生活をすることで、芸能人が多くの人を幸せにしていることを知る。そして芸能人はお金を稼いでいた。

「どれだけの人を幸せにするか」という観点は、プロの世界のスポーツはもちろんのこと、芸能界もそうだし、ビジネスも同じなのだと思う。

世界を変えたいと思う起業家がいる。日本ではソフトバンクの孫さんがそうだろう。最近、上場したメルカリの山田さんも。若いベンチャー起業家のなかにも当然いるわけで。

そういう方々が結果として、世界を変え、人を幸せにしてお金を得るのはまさに武井壮さんの授業の内容に合致するなと思う。

「ミッションは武器になる」という本がある。まだ読んでいないけれど、タイトルを見たときに、その通りだ!と共感した。「こういう社会課題を解決するために、世界を自分がこう変える!」こうやって自分ゴトできる世界レベルのミッションを持つことは、いわば才能だ。

芸能の話になるが、ウッチャンナンチャンの内村さんはこう言われることがある。「コントが愛した男」だと。ぼくは自分のミッションを見つけてのめり込めることってある意味で「選ばれた人」だと思っていて、こういった表現はキライではない。

で、それは生まれたときから決まっているのかというと、そういうわけでもない。誰にでもチャンスはある。自分をどうだますかという視点も大切だと感じる日々。

そして後天的を肯定し、自分を見つめて自身のミッションを大切にしようという流れ、いいと思う。内なる炎の熱度を上げていくこと。ミッションを、持とう。

213日(「いい人かどうか」が大事になってきた)

今さらながら、メルカリはクレジットスコアをつくったらしい。

メルチャリなど他のIDを統合して、各サービスでの取引の実績を評価するもの。その評価は、メルペイなどの金融の他サービスなどもろもろで、重要な評価基準となる。

つまりメルカリ経済圏として評価が高ければ、たとえば出資などサービスにおける判断がめちゃ早くなる。これは革命だと思う。このクレジットスコアリングはアリババの「芝麻信用(セサミ・クレジット)」を参考にしているようだ。

ぼくはアリババのセサミ・クレジットを聞いて恐ろしくなった。アリババはその評価基準にSNSなどの人脈も加味されてスコアリングしているらしい。まじかと。

Netflixにイギリスのドラマで近未来をテーマとした「世にも奇妙な物語」的作品がある。ご存知だろうか。「ブラックミラー」という。文句なしにおもしろい。

で、それはオムニバス形式のドラマなのだけど、なかにこんなエピソードがある。舞台は、各人の点数が社会的に可視化され、そのスコアリングに応じてサービスに優劣を付ける社会。

主人公の女性が、いい家を安く借りるために自身のスコアを上げようと努力するのだが、それが裏目に出るというアイロニカルな内容。まさにそんな社会が、中国で実際に起きているという事実。

もちろん何でも可視化し、社会と人を接続させ、やみくもにつないで、晒してしまう社会には賛成はできない。本当に社会としてのプラットフォームにC to C企業がなり得る日もくるとは思うのだけど。

「いい人かどうか」を測って可視化する。その流れは、企業にもきているように感じる。株主がその企業に財務諸表以外の点で価値を感じるかという観点、具体的にいえば持続可能性な社会に貢献しているか。

片手間のCSRとかではなく、その社会貢献をしているかで人や企業は投資をしたりする。要するに「いい企業かどうか」が株式会社の本業において重要になってきているということ。

成熟社会において当然の流れと思いつつ、「いい人かどうか」「いい企業かどうか」がとくに注目される。そんなとき誰にでも失敗はする。どうか、失敗が堂々とできる、リカバリー社会であってほしい。

214日(自分のなかの空白を埋めていく)

あたりまえだけど、時間は有限だ。だから人は考える。無駄をなるべく排除したい。そのためには物事を合理的に考えなければいけない。

まず目的があるとして、アイデアを落とし込むのには順序がある。目的→戦略→戦術、この順番。森岡さんの本で整理ができた。

最後が戦術。戦術とは具体であり、アイデアだ。そのアイデアを考えるのにあたって、必要条件を列挙することでスコープをだんだん絞っていく。ここも大事。目的から戦術までをかんたんな例にすると。

たとえば奥さんとケンカしてしまったときを例として当てはめよう。目的は「仲直り」。戦略は「奥さんの好きなもので歓心する」。戦術は「仕事帰りにケーキを買っていく」。こんなかんじ。

だれかひとりであれば徹底的に向き合えばいい。これが仕事だと市場しかり、ターゲットが不特定多数となってくる。手元にデータがなければ、見繕わなければならない。

たとえば。ぼくはこの週末、佐賀のソウルアイスである、ブラックモンブランの工場見学へ行った。夜バーでお店の人と話していて、佐賀の若い方はみんな県外に行ってしまうとすこし嘆いていた。

調べてみると、人口移動調査なるデータがある。九州でみると、やはり佐賀と長崎は現在地が県外の割合がとくに高い。また余談として興味深かったのは、「現在地の地域ブロック別にみた出生地別の平均子ども数」。

九州出身で九州在住の方の平均子ども数は、地域ブロックのなかでも1位。さらに九州以外の出身でも現在地が九州の方の平均子ども数も相対的に高い。これは九州が子どもを育ててやすい環境にあるということなのか。

話を戻す。たとえばブラックモンブランの販促を考えるとして、ターゲットを仮に、九州出身で、現在地が九州以外(ブラックモンブランを食べたいのに食べられていないであろう層)とする。おそらく人口移動のデータから算出は可能だ。平均データに依拠すれば、世帯数も出てくるはず。そうやって数字が見えてくると、グッと対象がリアルになってくる。

ターゲット=市場サイズが定まれば、仮に購入をゴールとすると、こういう流れになる。市場サイズ→認知率→ディストリビューション(地域)→コンバージョン(購入)。認知率とコンバージョンを上げることも施策になる。

数学はキライではなかった。でもこれまで熱を持って取り組んできた思い出はそんなない。自分のなかに空白のスペースがあるイメージ。「あっここ空いてるな」という自覚が最近できてきた。

食わず嫌いを苦手というようなもので、未開拓なのだから、積極的に取り入れていきたい。伝えるうえで数字の説得力をまざまざと感じることがある今日この頃。

実践ありきのマーケティングをするうえで、自分の余白を数字・数学でムリなく埋めていこう。